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2013/03/15

約束と信義-直木賞作家 北原亞以子さんを悼む

作家の北原亞以子さんが3月12日午前4時52分、東京都内の病院で心筋梗塞のため亡くなった。75歳だった。謹んでご冥福をお祈りする。

新聞の訃報によると、「 東京・新橋の家具職人の家に生まれる。高校卒業後、写真スタジオ勤務などを経てコピーライターに。1969年、子どもの視点で教育熱心な母親を風刺した小説「ママは知らなかったのよ」で第1回新潮新人賞を受けた。その後、隣近所の付き合いが濃厚だった幼時の記憶を生かし、時代小説へ活動の場を移して市井の人々の喜怒哀楽を情感豊かに描いた 」(Doshin-Web)という。北原さんは北海道新聞夕刊に2005年3月から06年2月まで、幕末の医師父子を主人公にした小説「情歌」を連載しているが、その前段であったいくつかのことを懐かしく思い出した。

北原さんと初めてお会いしたのは、2000年12月15日の午後であった。新聞小説の配信をしている私の勤め先を訪ねてこられて、早い話が「連載のお話はどうなっていますか」とお尋ねされたのである。私たちはその話があるのをまったく知らされておらず、「ひえーっ」と心の中で叫び、しかし、その非礼を詫びたのである。そのとき、北原さんと親しかった私の先輩記者が付き添ってこられていたのでもめ事にはならず、「しっかりしてね」と励まされて済んだのであった。

調べてみると、いつものことであるが、本当に新聞小説は作家次第というところでがある。延々と長く続く人もいれば、すぐ終わる人もいる。あるいは連載開始直前になっても、まだほかの仕事が長引いていて、何も準備をしていない人などがいっぱいである。そんなスケジュール崩れのなかで、紙面に穴を開けるわけにはいかないので、誰かに書いてもらわなきゃという緊急事態になり、それぞれがいろいろなコネで作家に接触したことがあった。北原さんもその一人で、いい線までいったようだ。ところが、別のやりくりがうまくいったのか、窮地を切り抜けたところで、北原さんの話は宙に浮いてしまったのだ。

私はその混乱の後に新聞連載の担当者になったのだが、何も引き継がれていなかった。その一件を契機に新聞各社に連絡し、北原さんをきちんとラインアップしなおした。その後、2001年6月の山本周五郎賞のパーティの日に、北原さんにあらためて正式に連載小説執筆をお願いした。ところが、北原さんも売れっ子で当時は別の新聞に連載をしており、さらにその後2年間は雑誌連載が入っている、「書くなら2004年ころがいい」と話された。つまり、3年後ならOKという返事であった。私はその時期には担当をはずれており、きちんと引き継がなければ、再び混乱すると、しっかり文書をつくることを心がけたように思う。

何を書くか打診したところ、「うな丼を考案した異色の人物物語を書きたい」と当初は話されていたが、次には「長崎の通詞ものを書くことにした」と話されていた。しばらくはファクスで情報を届けた。しかし、結局は新聞連載開始はお会いしてから4年後の2005年からで、内容はシーボルト絡みの医師ものとなった。小説はまことに生き物である。当然ながら、私はもう東京から離れた場所にいた。いずれにしろ、北原さんと会い、私の上司(五木寛之さんと同郷)の理解があったからこそ、北原さんの新聞小説は実現したと思っている。

お会いしたころ、北原さんは63歳くらいで、ほぼ今の私と同じ年ごろだったことになる。私から見れば、ずいぶん華奢で、小柄の人であった。それでいてエネルギッシュ、作家の中には浮世離れした人もいるものだが、その意味ではずいぶん大人のように思えた。作家仲間との東北旅行や趣味の工芸など、いろいろな話をされていた。

引っ越しをするうちに最近は年賀状も欠礼していた。だが、私には約束の大切さ、信義の重さということを今も思い出させてくれる作家である。どうぞ安らかにお休みください。

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