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2010/12/30

2010年の読書納めは現代短歌研究会編「〈殺し〉の短歌史」(水声社、2940円)

殺すくらゐ 何でもない
と思ひつゝ人ごみの中を
濶歩して行く——————(夢野久作)
短歌というメディアは、いかに《時代》と切り結んできたのか?
1910年の大逆事件から、第2次世界大戦、前衛短歌、戦後の政治運動を経て、21世紀の無差別連続殺人事件にいたるまで、この100年におよぶ〈殺し〉の近現代を、短歌という《方法》によって剔抉する。《短詩型新時代》の旗手たちによる稀有な成果。(水声社HPより)

Korosi

2010年の読書、最後の1冊は田中綾、谷岡亜紀、松澤俊二、森本平、中西亮太、福島久男、秋元進也、田中拓也、森井マスミ、大野道夫、川本千栄、黒瀬珂瀾、三井修といった面々が執筆陣に名を連ねる「<殺し>の短歌史」となった。読み応え十分の好著であった。

なぜ「殺し」の短歌なのか。そのきっかけは今は亡き菱川善夫が発した現代短歌研究会での提起であった。「死」は誰の上にも平等にやってくるが、「殺し」はそうではなく、選別的な形でしか訪れない。それを思想的突き詰めていくと、国家が行使する絶対的かつ強権的な正義の殺人に対して、個人はいかに異議を申し立てることができるかという問題意識となる。

よって本書は「大逆事件と近代日本-管野スガと明治天皇の歌をめぐって」(田中綾)を先鋒に置いて、共同幻想と暴力という両極から100年前の言語(短歌)表出空間を剔抉してみせるのだ。そして、近代日本における「殺し」歌の作られ方を権力との測位において照射していく。一方、第2幕では「夢野久作『猟奇歌』の成立過程-東京、満洲、父・杉山茂丸」(秋元進也)を軸に「殺し」の実相に迫る。そして最終幕で「サカキバラからアキハバラへ-『殺人事件』の非短歌性をめぐって」(黒瀬珂瀾)などで現在の「殺し」の諸相を明らかにする。

所感を述べれば、「BC級戦犯のうた-木村久夫とカーニコバル島スパイ事件」(福島久男)を読むと、あらためて国家というものがうちに向かっては国民を拘束動員し、外に向かっては凶暴な正義の暴力となることを知る。なんとも心が痛い。一方、「60年・70年安保闘争のなかでの<殺し>の歌」(大野道夫)は私ども世代には他人事ではないのであるが、この世代の「歌」を個的に解読しすぎているように思った。本来、内ゲバにしろ世界革命にしろ時代の感性の共同性と関係性の中でしか解けないというのが私の思いである。夢野久作論といえば、アジア革命の夢の逆説としての福岡玄洋社らの諸行を抜きには語れず、その昔、平岡正明のスリリングな「ドグラ・マグラ」論を読んだことを懐かしく思い出したが、ラディカリズムはファンキーであるほうがおもしろい。

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