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2010/12/11

小谷野敦著「現代文学論争」(筑摩選書)を読む

小谷野敦著「現代文学論争」(筑摩選書、本体価格1800円)を読む。恐ろしいほどの労作であり、私どものような素人読書人でも触発されるところの大きい内容であった。

収められているのは「江藤淳の論争」から始まり、「『内向の世代』論争」「フォニイ論争」「『事故のてんまつ』事件」「筒井康隆の戦い」「『春琴抄』論争」「宮沢賢治論争」「『純文学』論争-笙野頼子論争」「柳美里裁判とその周辺」など17の「論争」である。門外漢には、はたしてそういう論争があったのかも知らない専門的な言闘が専門家の間では真剣に展開されていたことに驚かされた。

Koyano

著者は博学な研究者らしく、当該論争に関してその当時に展開された多くの発言・表現を採録して十分な目配りができるように配置しつつ、その背景にある研究水準や方法論の流行、政治社会的な傾向をも踏まえ、著者の分析・視点がしっかりと示されていて大変わかりやすい。もちろん、その結論が正しいかどうか異論を挟むに当たってもある意味で公平に資料を提示しているわけで誠実さが感じられた。

どの論争の章もおもしろいのだが、著者の面目が躍如しているのは、私なりの整理をすれば、主人持ちの言説の擬制に対する表現者としての憤怒があふれている部分に入魂の文章力を感じたことである。具体的には、『事故のてんまつ』や宮沢賢治に関する論究には、本当はもっと厳しい言葉で書きうることがあったのだろうと思った。最終章の柳美里裁判に関してもそうであるが、肝心の本質(中心点)を回避した言説応酬がいかに空しく、「官許」の言説空間が真実から遠く離れていくことの愚かさを打ち破るのだという決意性を感じたのであった。

江藤淳の「成熟と喪失」「自由と禁忌」などに見られるラングとパロールとか、「治者の論理」などを比較的同時代的に読んだ印象があり、その悲劇的な最期を含め、冒頭から江藤の世界を追体験できたのは懐かしいことであった。日本的な「反核」論争から、近年(といってももう十分昔だが)の湾岸戦争と「敗戦後論」論争も同じように思い出された。柄谷行人や小森陽一、加藤典洋などの評論家・研究者に一世風靡ぶりに対する筆者の沈着な批判も頷かされるところが多かった。

「たけくらべ」論争やら「春琴抄」論争などは一種のオタクの物言いにも見えたが、「こころ」を含め、それらの論争に費やす文学者たちのエネルギーには敬服させられたことでもあった。

これらの膨大な論争を整理するのは恐ろしく大変な作業であったに違いない。なにしろ研究者というオタクたちの膨大な怨念のような世界のゴミを掃除しながらポイントをコレクトする作業なのだから。おそらく本書で触れたことがらのうち、たとえば川端康成論などは独立して一本にまとめられるものであろうから、著者の健筆をさらに期待したく思ったことであった。

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