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2010/06/08

再録シリーズ「魔の刻 虚の場」2・出発の時

掌編第2話・「出発の時」
 
 僕が家を出ようと決心したのは十七歳の春だった。

 美しい田園地帯と背後に連なる勲しい山並みが、僕の中の決意をかきたてた。「現状に甘んじて生き過ぎてしまった。自分を見つめ直すしかない」。心の奥から湧き上がる情熱の嵐。旅立つのは今だ!

 僕は小さな時からみんなに可愛がられた。

 タカオ兄はお姉さんから「めんこい弟ができて、よかったしょ」と言われ、少しはにかみながらも僕を抱いてくれたものだ。現代っ子のように、ゲームばかりをして遊んでいるわけじゃないのに、厳しいお父さんは「外に出し、世間の風に当てたほうが強くなるんじゃないか」などと言った。でも、ほかの家族は「まだ小さいのだしそんなに急がなくても」とかばってくれた。

 僕はどんな病気なのか教えられていなかった。だが、一人で外に出ちゃダメ、と言われていた。

 だから、家の中で手足を動かす訓練や数字を使った頭の体操をして過ごすことが多かった。時々、タカオ兄のパソコンを触って遊ぶのだけれど、「不器用だから見ていなさい」と、すぐ席から下ろされてしまう。

 そんなふうに平穏な日々が過ぎた。体も大きくなったある日の夕方、タカオ兄が「散歩に行ってみようか」と僕を誘ってくれた。

 その時、初めて夕焼けを見た。澄み渡った天空をオレンジ色に染め、山のかなたに落ちてゆく太陽。その果てに、どんな世界が開けているのか。あの夕日を追って、行けるところまで行って見たいと思った。

 僕はロマンチストなんかじゃない。でも、だれにだって心動かされる光景はあるものだ。そしていつの日か、チャンスがあれば一人で旅に出ようと誓った。そうして何年かが過ぎ、僕は十七歳になっていた。

 深夜、みんな寝静まったころを見計らい、家を出た。

 僕は大きく深呼吸をしてから思いっきり走りだした。道はどこまでも続いている。遠くまで行くんだ。

 気がつくと僕は河原に倒れていた。隣には体の大きな野良がいる。彼は哀れむように言った。

 「おまえ、ドッグ・イヤーって知っているか」

 「なんですか。それ?」

 「犬の一年は人間の四、五年いや七年と同じなんだ。おまえが人間なら、八十歳をとうに過ぎている。しかもシーズーという宮廷で飼われたほどの上品な犬族だから、全力で走れば悲しい結果は目に見えている」

 ああ僕はこのまま死ぬのか。無謀すぎた。でも、僕の野性が大きな吠え声となった。苦しいけれどうれしい。次第に薄れていく意識。どうやら本当の出発の時だ。
          (第2話・了)

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