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2009/04/08

生まれたところを遠く離れて

最近は長い原稿をほとんど書いていない。ちょっと忘れていたが、【週刊・読書北海道メール版】というメディアに「パソコンをを読む」という連載原稿を書いていたことがある。

筆力のなさでは定評のある私であるが、復刊第82号(通巻213号)=2000/09/12発行に書いた原稿をリバイバルで掲載してみる。笑っていただければ幸いである。

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●パソコンを読む13(谷口 孝男)    生まれたところを遠く離れて

       村上龍著『希望の国のエクソダス』(文藝春秋、1571円)
       町田康著『きれぎれ』(文藝春秋、1143円)
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 §1《希望という名のあなたを訪ねて》

 「69年」を激走して文壇に登場し、ドラッグ&ファックの世代として埴谷雄高をも驚かした村上龍はここ数年、総括の季節に入ったのか一段と何かに憑かれているかのように見える。日本経済のバブル崩壊による経済的損失・精神的荒廃という「失われた10年」を論じる時の姿をNHKテレビで見たが、使い回したマックのノートパソコンを背に、ひとつひとつの事象に触れていくスタイルにマテリアリズムというよりフェティシズム的なものをも感じた。正直なところそんなくだらないことにこだわらなくてもいいのになあ、というレベルの場所に、村上はあえて踏み込んでいるように思えた。
 
 パソコン少年たちを描いた最近の話題作『希望の国のエクソダス』(文藝春秋、1571円)を読んでみた。僕の印象は変わらなかったというべきか。
 『希望の国のエクソダス』は素材的には、なかなか挑発的である。近未来の日本。パキスタン国境で日本の少年が負傷する事件が起きる。少年は「あの国には何もない、もはや死んだ国だ、日本のことを考えることはない」と語り、「ナマムギ・ナマゴメ・ナマタマゴ」と言い残して消える。これに影響を受け、中学生の日本脱出が相次ぐ。それが沈静化したかと思うと、全国で80万人もの中学生が学校を拒否し不登校する事態が生まれていた。彼らの中からはパソコンとインターネットに通じた「ナマムギ」なるグループが形成され、着実に影響力を強め、ひとつの物質力となっていく。少年たちは豊富なパソコンやソフトウェアの知識を生かし、ネットビジネスを成功させる。そして国会への革命的登場を果たし、世界的なチャンネルを獲得するに至るのだ。さらには円-アジア通貨危機を招来させるのだ。
 その後、どうするか。

「ASUNAROは現在約45万人の組織になっていて、全国に散らばっているんですが、その約半分でですね、つまり約30万人くらいで、北海道に集団移住しようと思っているんです」
 どうして?
「別にこれといった理由はないんだけど、土地が広くて気分がいいんじゃないかと思ったんです。(略)」(同書354頁)

 すなわち、このニューエイジたちは、北海道に集団移住し、自らが命名した「野幌市」を立ち上げ警察力と独自の通貨「イクス」を持つに至るのだ。当然のことながら、これは擬似国家への過渡である。民族が解放を求め国家を形成してきた近代の歴史は、歯車を進めてきた。すなわち国家はだんだん敷居を低くし、開かれ消えていくという方向に--。にもかかわらず、国家からの解放を求め、それを超えようとしている人間たちが新たな国家を形成してしまうという逆説を、僕らはこの小説で見せられていることになる。これは新世紀の悪夢というべきか。だが、決定的に発想が古いように思える。だれのか? もちろん作者たる村上の発想が、である。国家をいかに開くか、という方向にある現代の最前線の課題を、たかだかニュー・フロンティア思想のレベルに押し戻してはならないはずだろう、というのがこの話題作への僕の批判である。

 §2《ニューエイジたちの夢》

 先を急ぐまい。興味深く思ったのは、北海道に国家を作るというアイデアだが、もちろん村上はここで、北海道は土地が広くて気分がいいということを語っているわけではない。北海道が外部からどう見られているかについて好個な認識を示してくれているのだ。

 5年前に拓銀が潰れて以来、北海道は日本経済の縮図のような状況が続いていた。そしていつの頃からかメディアは当たり前のことのように取り上げなくなった。北海道の失業率はすでに10パーセントを超え、苫小牧東開発公社が2001年に倒産すると、それまで全国平均の倍近くあった国家支援による公共事業はその規模が急速に減った。北海道は見殺しにされつつあった。国に頼る姿勢を改めないと北海道みたいになってしまう、というような他の自治体に対する一種の見せしめにもなっていた。      (同書210頁)

 こうした北海道論はおそらく間違ってはいまい。確かに北海道はこの数年、この国の政治・経済システムから手ひどい措置を受け続けている。このことを的確に村上が指摘しているのは評価してよい。北海道独立論がニューエイジたちの夢とシンクロするのかどうか。この小説については、そうした視点からの議論もあり得るだろう。 村上の探求心と博識がこの小説の持ち味であるが、実はそれが弱点でもある。村上は小説の中で、日本社会の陥っている状況やら経済論を、レクチャーでもするように延々と繰り返すのだが、その部分がリポートを読まされているような印象を与えることが少なくないのだ。昔、町内のオヤジが散髪をしてもらいながら、「最近の政治はなってないやねぇ」などとやるのを「床屋政談」と言った。村上の主人公は恋人と懐石料理などを食いながら状況論をあれこれやるのだ。「これからどうなるんだ?」「国が破産するのよ」などと。さしずめ「めしや政談」と言うべきか。もっとも昔のグルメ漫画が食材に固執して、あれこれとウンチクを披露し合うのに対し、村上は軽やかにそのレベルを自明としているところが、時代の歯車が一歩動いたあらわれだろうか。
 
 さて村上がこの小説でこだわっているのは社会のコミュニケーション不全ということである。建前ではもう話が通じない、常識なんてとっくに崩壊しているという当たり前の場所に人々=少年がいるにもかかわらず、そのことを隠蔽しようとしているメディア=大人たちへの不信である。だが、その少年たちが擬制を次々と終焉せしめた果てに、たどりつくむき出しの世界が果たして、心休まる場所なのか。村上は懐疑的姿勢を崩してはいない。

 「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」と中学生たちのリーダーは語る。そのために彼らが作った擬似的な国家を訪ねて主人公は「この快適で人工的な町に希望はあるのだろうか、と考えた。もし希望があるとしても、実現に向けてドライブしていく動力となるのは欲望だろう」と思うのである。そこに村上の世代的な判断があるといえる。
 
 閉塞的な日本の状況に愛想を尽かした少年たちがパソコンに走る。そこで勝ち得た透明な物質力によって、希望を夢見る--。
 
 この構図から、僕らがまず思い浮かべるのはオウム真理教だろう。彼らもまた閉塞的な社会に見切りをつけ、自らの内面に向かい、そこから反転して擬似共産主義的な宗派へと形成していった。その際、ヨガとパソコンは解脱のために欠かせぬアイテムであった。ヨガは自我を解体し、パソコンはニュートラルなコミュニケーション装置であった。そうした脱中心化したはずの平穏な組織の中心に、強力なリーダーが居座る時、その組織は容易に前近代的な家父長集団、そして擬似国家へと変質していくことを、オウム真理教の経験は教えた。この小説の「ナマムギ」(ASUNARO)グループもまた、そうした雰囲気を漂わせているのはいうまでもない。
 
 主人公の恋人は「パソコンさえあればどこでも仕事ができるから」という理由で野幌市への移住を考えている。本当にそうだろうか。パソコンさえあれば、仕事ができるというのは、中学生グループ同様の錯誤でないのか。パソコンなど、ただの道具でしかない。「精神的交通手段」の技術的発展の成果でしかない。中心には生産力にして労働力たる人間が位置せざるを得ないのである。
 
 コミニュケーション不全の時代に希望をつくる集団を形成すること。そこには時代錯誤な国家顔貌と透明なファシズムの臭いが漂っている。そのことを十分承知の上で村上がどこまで進むのか。実際の社会ではなく、小説という想像力の世界で、どこまで描ききれるのか。良くも悪くも大変刺激的な作品ではある。
 
 (ちなみに、『希望の国のエクソダス』にはオフィシャルサイトが開設されている。URLは http://www.Ryu-Exodus.com 。こちらは小説としてはいささか場違いな印象を与えたリポート作品の舞台裏をしらせる力作だ。)

 §3《何もない場所から》

 ついでながら村上龍が選考委員に加わった第123 回芥川賞に町田康「きれぎれ」と松浦寿輝「花腐(くた)し」が決まった。村上は選評で面白いことを書いている。

 候補作を読んでの感想を一言で言うと、何もない、ということだった。英語で言うと nothing ということになる。(中略)『きれぎれ』には nothing 以外にはモチーフがない。『きれぎれ』の文体は、作者の「ちょっとした工夫」「ちょっとした思いつき」のレベルにとどまっている。(月刊『文藝春秋』9月号)

 確かに、松浦の作品には擬古的なほのめかし以外に、ほとんど動かされるものがなかった。これに対して町田康の作品『きれぎれ』(文藝春秋、1143円)には「ちょっとした工夫」以上のものを感じた。だが、村上龍は町田康には文体のアレンジしかなく、切実なリアリティのようなものがない、と見ているのだろう。確かに今の村上には「現代を巡る絶望と希望を書き尽くす」というモチーフが漲っている。しかし、町田にはそれがないと言えるのだろうか。
 
 町田の小説を読んで僕は、野坂昭如を思いだした。あの焼け跡闇市派には語ろうとすれば黙すか、饒舌を押さえきれず吃音者的にならざるを得ない切実さがあった。町田にはそれを感じた。
 
 町田のその破天荒な文体は生活破綻者特有のリズムを持っている。吉本隆明的に言えば、<話体>となろう。この手の文体は、世の中を捨てたり、そうした場所から世の中を照射する力を持っている。現代に於ける<話体>とは広がりすぎた高度資本主義社会のもたらすものを周縁から捉え返そうとしているものだ。
 
 町田が撃とうとしている時代は、『希望の国のエクソダス』の少年たちが見ている場所とそう違わない。落ちこぼれの道楽息子。ほんとうに落ちぶれて。人一倍の劣等感。それゆえの逸脱行動。反権威を装いながら世渡り上手に成功していく友人への鬱屈した思い。それらが、感覚の断片を積み重ねたような文体で記されていく。
 
 自分の場所がない。それを希望がないと言い換えてもいい。町田の主人公のいる場所は、そういう場所だ。
 
 少年たちがパソコンネットワークでそこから逸脱しようとしているのに対して、町田の主人公はランパブを這い回るようにして社会への異和を表現しているわけだ。そして彼は小賢しくないから「この国には希望だけがない」などというセリフを吐かないだけだ。

 新田富子はうつろな表情で窓の外を眺め始め、新田富子の母親は気が狂ったような目で仲人を睨みつけ、仲人は周章狼狽の挙げ句、おほほほ、と笑って場を取り繕おうとして失敗し、母親はひゅうひゅう死にそうな息をした。俺はとどめだとばかりに、「やはり鰻はこうやってちゅるちゅる吸って食うのがいちばん旨いですね」と云い、膳の上にあった鰻重に顔を伏せ、鰻の蒲焼きをちゅるちゅる吸った。    (『きれぎれ』33頁)

 こうした<話体>に村上が反応しないのは判るが、町田の感性が届いていてもおかしくはない。村上がちょっとデコレーションしすぎの場所にいることの反動があるように僕には思える。文学の裾野は村上が考えている以上に広いのではないか、というのが逸脱者への密かなシンパシーを抱き続けている僕の感想である。

 §4《旅のつれづれに》

 7月に仕事が変わって、全国各地を放浪することが多くなった。東芝リブレットはますます必須になった。PHSカードも「どこでもインターネット」に役立っている。もっともパソコンなんてなくてもやっていけるぜ、っていう気分も相変わらずである。
 
 旅先に携行するにはやはり「小さな本=リブレット」がいい。そこでオススメが『吉本隆明資料集』である。これは高知の吉本主義者の若頭をやっている松岡祥男が猫々堂(〒780-0921 高知市井口町45 松岡方)という発行所をつくり、散逸している吉本隆明の対談・討論記録を発掘整理している気の長い仕事である。9月10日付けで第6集(1000円)まで漕ぎ着けた。1960年に行われた「トロツキストと云われても-共産主義者同盟に聴く」(島成郎・葉山岳夫・吉本隆明)など懐かしい座談記録が収録されている。80頁程度の冊子なので気軽に持ち歩け、結構、読み応えがある。ニャンコのシンボル・マークは第6集からハルノ宵子さんが描いている。ばななほどメジャーじゃないが、こちらも吉本隆明の娘さんである。巻末には試行出版部のコピー広告もあり、いわば吉本隆明公認の資料集となりつつあるようだ。
 
 第7集では60年安保闘争渦中のものを収載すると予告されている。いずれ、まとめられれば最もラディカルな吉本隆明発言集となるだろう。そんな期待を抱きながら1集1集読んでいくのは楽しい。吉本嫌いの人にはどうでもいいだろう。嫌いな時もあるが、気になるという人にはぜひ読んでもらいたい。とりあえず宣伝ではあるが、言うまでもないが、僕も身銭を払って予約購読している。読者の支持だけが支えという『試行』の原則がここでも味わうことができるというわけだ。


 --執筆時点から約10年、すべては変わっている。それでも、妙に懐かしい文章である。

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