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2009/04/27

CRエヴァシリーズ第5 弾

CRエヴァシリーズ第5<br />
 弾
新世紀エヴァンゲリヲン新劇場版・破が6月27日公開となる。「序」が比較的オーソドックスに、アニメ版の第6話「決戦、第3新東京市」あたりまでを再現していたのに対して、「破」ではどうようにサブストーリーを含めて新展開するのか楽しみである。

その前哨戦というわけではないが、パチンコ「CR新世紀エヴァンゲリオン −最後のシ者−」もこの4月から導入され稼働している。パチンコ「エヴァ」シリーズとしては、「CR新世紀エヴァンゲリオン」「CR新世紀エヴァンゲリオン・セカンドインパクト」「CR新世紀エヴァンゲリオン −奇跡の価値は−」「CR新世紀エヴァンゲリオン −使徒、再び−」とあり、第5作となる。

しばらく、その方面は自粛していたが、ちょっぴり連休モードになりつつあるので、挑戦してみた。画像がテレビアニメ時代に比べると、映画っぽくなってしまったなあ、と思った。その分、印象が少し変わってしまう。ひんぱんにセリフ付きで登場する葛城ミサトの「目標を確認して」と叫ぶ姿は、ぜんぜん他のアニメのようでイカしてない。それから、普通は確率変動と通常当たりがわかるのだが、ずいぶん過渡的なモードがあるようで、そこはなじめなかった。

爆発力は依然としてあるが、それに至らない場合の単調さが痛い。「逃げちゃダメだ」と思いつつ、原資が厳しい場合には、もっと甘い機種に移らざるを得ないだろう。

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2009/04/26

グラン・トリノ

グラン・トリノ
クリント・イーストウッド。ビー・バン。アーニー・ハー。クリストファー・カーリー。コリー・ハードリクト。ブライアン・ヘーリー。

朝鮮戦争の帰還兵ウォルト・コワルスキーはフォード社を退職し、妻も亡くなりマンネリ化した生活を送っている。彼の妻はウォルトに懺悔することを望んでいたが、頑固な彼は牧師の勧めも断る。そんな時、近所のアジア系移民のギャングがウォルトの隣に住むおとなしい少年タオにウォルトの所有する1972年製グラン・トリノを盗ませようとする。タオに銃を向けるウォルトだが、この出会いがこの二人のこれからの人生を変えていく…。

『チェンジリング』からほとんど間を空けずに公開されるイーストウッド監督作。『ミリオンダラー・ベイビー』以来、4年ぶりに主演も兼ねた。朝鮮戦争従軍経験を持つ気難しい主人公が、近所に引っ越してきたアジア系移民一家との交流を通して、自身の偏見に直面し葛藤する姿を描く。アメリカに暮らす少数民族を温かな眼差しで見つめた物語が胸を打つ。西部劇や刑事ドラマで築き上げた、“男イーストウッド”のヒロイズムが詰まった人間ドラマだ。主人公と友情を育む少年タオ役のビー・バン、彼の姉役のアーニー・ハーなどほとんど無名の役者を起用しているにも関わらず、どんな端役までも行き届いたきめ細かな演出がイーストウッドの真骨頂だ。(goo映画より)

グラン

クリント・イーストウッド。やるなあ。良い作品だとは噂に聞いていたが、本当に感動的な作品だ。

「アメリカ」の可能性の中心をこんなにも見事にとらえてみせるとは。びっくりした。もちろん、主人公のコワルスキーはポーランド系の白人のアメリカ人だ。差別意識も偏見もいっぱい持っている。戦争で人も殺した。だけど、そんな頑固な偏見の塊が、ふれ合いの中で、変わっていく。理念じゃない、現実から変わるしかない、という見事な指針の提示である。多人種多民族国家アメリカという溶鉱炉の熱量をエネルギーに転化して見せた。アメリカはダメだけど、それでも最先端であることだけは間違いない。

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2009/04/24

田中綾さんの短歌月評終わる

北海道新聞夕刊文化面に掲載されていた田中綾さんの道内文学「短歌」月評が4月23日掲載分で最終回となった。田中綾さんの短歌月評は1997年1月スタートで、途中2年ほどの中断をはさんでいるが、約12年間で幕を閉じたことになる。

田中綾さんは、もともと「アジアにおける戦争と短歌」で、1995年の現代短歌評論賞を受賞しており、スケールの大きなパースペクティブを持つ評論家である。道内で同賞は「敗北の抒情」で恩師、菱川善夫が第1回授賞以来の快挙であり、稀少気鋭の俊才である。

その文章には女性らしい細やかな感性が光っているのはもちろんであるが、アジアやアイヌ民族や、さらには看過したり光当たらぬ存在領域に目配りをしつつ、漂流する日本人の根基を探ろうとする批評意識にあふれていた。そうした大きな土俵の上で、実にしっかりと道内作家の収穫を論じていたのである。

連載中にも、評論活動は続けられており、2003年には道銀文化財団が道内のすぐれた若手芸術家に贈る道銀芸術文化奨励賞に選ばれている。一方で、2007年12月には恩師である菱川善夫さんを失うという哀しい出来事もあった。だが、仄聞する限り、恩師の死を見事に弔ったのも、愛弟子であったことは間違いないと思っている。

私的なことを言えば、「新札幌市史」第5巻(通史5・下)にて、小生の過去のつたない評論活動を書き留めてくださったのも、田中綾さんである。誠に感謝に堪えないが、ストライクゾーンに入っていれば、もっとファンになっていたなあと思う馬鹿者である。

田中綾さんは東京紙にも執筆の場を持っているはずだし、恩師の後を継いでの大学教員の仕事も忙しいことであろうが、連載がひとつ減ったのを機に少しはゆっくりとされるといい。女性に齢のことを言うと叱られるが、評論家としてさらに飛躍する転換点(チェンジオブペース)として、胆力を蓄えるのもまた善きかな、と思うのである。

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2009/04/23

サ、サ、サ、サクラかな

サ、サ、サ、サクラかな
北海道に桜前線が上陸するのは、もう少し先らしい。

このところ、結構寒い日も続くし、札幌は連休あたりかな。

と、思って歩いていたら、なにやら街路灯の下が妖しく美しい。

サ、サ、サ、サクラかな

近づいてみると、花が見える。ピンクの花びらじゃありませんか。

もしや。ま、まさか。

とりあえず、スクープ撮として、不詳なれど、夜空のキャンパスに浮かべてみました。

迅きサクラ
遅るるサクラも
散るサクラ

サ、サ、サ、サクラかな

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2009/04/20

クレしんグッズ

クレしんグッズ
全然、クレヨンしんちゃんの応援にはならんけど、またしてもオリジナルグッズを映画館で大人買いしてしまった。

しんちゃん下敷き300円、ノート300円、クリアファイルセット500円、トーチライトペン700円など。

とりわけ、いつも重宝しているのはキーチェーン500円で、数は内緒だけど保存用に複数買ってしまいました。

クレしんグッズ
あっ、それからパンフレットは必須ですね。お値段はたぶん500円だったかな。絵本としても楽しめます。

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2009/04/19

レッドクリフPart2 未来への最終決戦

ジョン・ウー監督・脚本。トニー・レオン。金城武。チャン・フォンイー。チャン・チェン。ビッキー・チャオ。中村獅童。

大軍を率いて赤壁へ進行してきた曹操軍。曹操は疫病で死んだ自軍兵を対岸の孫権・劉備連合軍の元へ船で流し、連合軍に疫病を蔓延させる。これが原因で劉備軍は撤退、だが諸葛孔明だけは赤壁に残った。そんな中、孫権軍司令官・周瑜と孔明はお互いの首をかけての謀略を展開、周瑜は曹操軍2武将の謀殺、孔明は3日で10万本の矢の収集に成功する。やがて曹操軍に潜伏していた孫尚香が帰還、決戦へ向けて本格的な準備が始まり……。

三国志史上最も有名な合戦「赤壁の戦い」を映画化した『レッドクリフ』の後編。前作は戦いに至るまでの経緯や人間ドラマが中心となったが、今作ではいよいよ本格的な戦闘が展開される。期待の合戦シーンはダイナミックかつ大迫力。ジョン・ウー監督の作品らしく戦場では火計による爆発が多発し、そんな中で猛将たちが一騎当千の活躍を見せる。前半の周瑜と孔明による知謀の競い合いも見ごたえがあって面白い。一方ドラマ面では前作同様、周瑜と孔明をその中心に置きつつも、周瑜の妻・小喬や孫尚香ら女性陣がアクセントを加えている。オリジナル要素を加えつつ、壮大なスケールの作品に仕上がった。(goo映画より)

レッドクリフPart2<br />
 未来への最終決戦

「レッドクリフ」の期待の後編は期待に違わぬ出来映えであった。

とにかく、すごいわ。見ていると、疲れてくるほど、戦闘シーンは激しいが、それでもバラエティーに富んでいて飽きさせない。中国は昔から優れた哲学思想(世界観)があり、智慧のある軍師がいて、勇猛な英雄がいて、大量の兵器があり兵士がいるのだから、それは毛沢東じゃないが、持久戦になったら、周辺国はかなわないはずだ、と思わされた。

戦争映画かというと、肝心のところでは、絶世の美女がおいしいところをしっかりと持って行くし、なかなかしゃれた仕上がりでもある。

そして、戦争に勝者はいない、という結語も当たり前のようで重い。

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劇場版クレヨンしんちゃん

劇場版クレヨンしんちゃん
「クレヨンしんちゃん オタケベ!カスカベ野生王国」。

臼井儀人原作。しぎのあきら監督。声・矢島晶子。ならはしみき。藤原啓治。

恒例であるが、初日ということで、体調はすこぶる悪いのだが、東宝公楽へと出かけていった。

作品はなかなか皮肉たっぷりに、現在の「エコエコ」社会の風潮を批判して見せている。人間がいるから地球は汚れちゃうというのは至極もっともであるが、だからといって、人間をみんな動物にしちゃえばいい、というのはアフリカゾウもびっくりである。

エコ教祖と戦うのは、もちろん野原一家であるが、なぞのわがまま美女ビクトリアがアメ車で疾走するわ、爆弾を破裂させるわ、で大活躍する。この美女の正体こそ、今回の作品の肝であるが、なんだかなあ。

しんちゃんも野生化するが、意外に小さい。ひまわりは逆というのも面白い。野原ファミリーの団結力、愛の賛歌は相変わらずである。

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義母の墓参り

義母の墓参り
札幌郊外も雪が解けてきれいになったということで、レンタカーで滝野にある霊園まで、義母の墓参りに行ってきた。

まだ寒かったが、墓地は冬の厳しさに荒れた様子もなく、冷たい水での掃除も存外に楽なことであった。

風が強くて、カバーを立てても、ろうそくはすぐ消えてしまう。やむなく、線香だけはたっぷりと、くゆらせる。

一時間ほどで引き揚げたが、なんだかひと安心である。

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岡さんという文芸編集者

東京の小娘さんから「週刊読書人」に吉川英治文学賞の記事が載っていると、勝手にコピーが送られてきた。

吉川英治文学新人賞には、朝倉かすみ「田村はまだか」、柳広司「ジョーカー・ゲーム」が選ばれているが、本賞は奥田英朗「オリンピックの身代金」である。

奥田さんは4月10日の受賞挨拶のなかで、デビューしたのは1997年8月で、その力になったのが、講談社の編集者で「亡くなった岡さんという方だった」と述べ、「岡さんのことを知っている皆さんは、今夜は彼のことを思い出して欲しい」と語ったそうだ。

コピーが届いた理由はそこにある。私もまた「岡さん」を少し知っているからだ。岡さんとは、2005年11月、くも膜下出血で53歳で急逝した岡圭介さんのことであろう。最後は講談社の文庫出版局長だったそうだが、編集者時代に、何度かお会いしている。

2001年の如月、作家なかにし礼さんの小説担当の話があり、準備の段階で岡さんと打ち合わせをしたのだ。結局、岡さんと話した件は作家の構想も変わり、講談社からの出版の話はなくなり、岡さんとも会わなくなった。

岡さんは坊主頭で、スポーツマンタイプの美男子だった。ずいぶんモテるだろうと羨ましく思ったものだ。作家は編集者と二人三脚。岡さんは幸せな編集者だったと再認識した。

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2009/04/09

義母の一周忌

義母の一周忌

きょうは義理の母の一周忌である。といっても、無宗教の人間であるから、殊更のことはなにもしない。義理の母の好きだったアイスクリームやお菓子や花を供えて、朝から礼拝である。

坊さんを呼ぼうかと思ったが、どうもぴったりと来ないので、昔とったなんとやらで、自分で読経することにした。中村元のインド原始仏教の本などを読んだことがあるが、「犀の角のように、ただ一人歩め」というフレーズがいつまでも心の奥に厳しい教えとなって残っている。仏教者の道は、葬式のそれとは違って、まことに単独者の真摯な歩みであった。

そんなことを思い出しながら、般若心経を臨終の12時32分までに、数度、読み上げた。礼拝。

昨年も天気がよく、青い空に吸い込まれるように、義母は87年お世話になった肉体の桎梏から自由になって旅立っていったのだった。

同行衆を付けられなかったが、一周忌には義母の好きだったぬいぐるみファミリーにも加わってもらった。

一年が過ぎるのは早くもあり短くもある。ただ、なかなか欠落を埋めることはできない。

合掌。

義母の一周忌

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2009/04/08

生まれたところを遠く離れて

最近は長い原稿をほとんど書いていない。ちょっと忘れていたが、【週刊・読書北海道メール版】というメディアに「パソコンをを読む」という連載原稿を書いていたことがある。

筆力のなさでは定評のある私であるが、復刊第82号(通巻213号)=2000/09/12発行に書いた原稿をリバイバルで掲載してみる。笑っていただければ幸いである。

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●パソコンを読む13(谷口 孝男)    生まれたところを遠く離れて

       村上龍著『希望の国のエクソダス』(文藝春秋、1571円)
       町田康著『きれぎれ』(文藝春秋、1143円)
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 §1《希望という名のあなたを訪ねて》

 「69年」を激走して文壇に登場し、ドラッグ&ファックの世代として埴谷雄高をも驚かした村上龍はここ数年、総括の季節に入ったのか一段と何かに憑かれているかのように見える。日本経済のバブル崩壊による経済的損失・精神的荒廃という「失われた10年」を論じる時の姿をNHKテレビで見たが、使い回したマックのノートパソコンを背に、ひとつひとつの事象に触れていくスタイルにマテリアリズムというよりフェティシズム的なものをも感じた。正直なところそんなくだらないことにこだわらなくてもいいのになあ、というレベルの場所に、村上はあえて踏み込んでいるように思えた。
 
 パソコン少年たちを描いた最近の話題作『希望の国のエクソダス』(文藝春秋、1571円)を読んでみた。僕の印象は変わらなかったというべきか。
 『希望の国のエクソダス』は素材的には、なかなか挑発的である。近未来の日本。パキスタン国境で日本の少年が負傷する事件が起きる。少年は「あの国には何もない、もはや死んだ国だ、日本のことを考えることはない」と語り、「ナマムギ・ナマゴメ・ナマタマゴ」と言い残して消える。これに影響を受け、中学生の日本脱出が相次ぐ。それが沈静化したかと思うと、全国で80万人もの中学生が学校を拒否し不登校する事態が生まれていた。彼らの中からはパソコンとインターネットに通じた「ナマムギ」なるグループが形成され、着実に影響力を強め、ひとつの物質力となっていく。少年たちは豊富なパソコンやソフトウェアの知識を生かし、ネットビジネスを成功させる。そして国会への革命的登場を果たし、世界的なチャンネルを獲得するに至るのだ。さらには円-アジア通貨危機を招来させるのだ。
 その後、どうするか。

「ASUNAROは現在約45万人の組織になっていて、全国に散らばっているんですが、その約半分でですね、つまり約30万人くらいで、北海道に集団移住しようと思っているんです」
 どうして?
「別にこれといった理由はないんだけど、土地が広くて気分がいいんじゃないかと思ったんです。(略)」(同書354頁)

 すなわち、このニューエイジたちは、北海道に集団移住し、自らが命名した「野幌市」を立ち上げ警察力と独自の通貨「イクス」を持つに至るのだ。当然のことながら、これは擬似国家への過渡である。民族が解放を求め国家を形成してきた近代の歴史は、歯車を進めてきた。すなわち国家はだんだん敷居を低くし、開かれ消えていくという方向に--。にもかかわらず、国家からの解放を求め、それを超えようとしている人間たちが新たな国家を形成してしまうという逆説を、僕らはこの小説で見せられていることになる。これは新世紀の悪夢というべきか。だが、決定的に発想が古いように思える。だれのか? もちろん作者たる村上の発想が、である。国家をいかに開くか、という方向にある現代の最前線の課題を、たかだかニュー・フロンティア思想のレベルに押し戻してはならないはずだろう、というのがこの話題作への僕の批判である。

 §2《ニューエイジたちの夢》

 先を急ぐまい。興味深く思ったのは、北海道に国家を作るというアイデアだが、もちろん村上はここで、北海道は土地が広くて気分がいいということを語っているわけではない。北海道が外部からどう見られているかについて好個な認識を示してくれているのだ。

 5年前に拓銀が潰れて以来、北海道は日本経済の縮図のような状況が続いていた。そしていつの頃からかメディアは当たり前のことのように取り上げなくなった。北海道の失業率はすでに10パーセントを超え、苫小牧東開発公社が2001年に倒産すると、それまで全国平均の倍近くあった国家支援による公共事業はその規模が急速に減った。北海道は見殺しにされつつあった。国に頼る姿勢を改めないと北海道みたいになってしまう、というような他の自治体に対する一種の見せしめにもなっていた。      (同書210頁)

 こうした北海道論はおそらく間違ってはいまい。確かに北海道はこの数年、この国の政治・経済システムから手ひどい措置を受け続けている。このことを的確に村上が指摘しているのは評価してよい。北海道独立論がニューエイジたちの夢とシンクロするのかどうか。この小説については、そうした視点からの議論もあり得るだろう。 村上の探求心と博識がこの小説の持ち味であるが、実はそれが弱点でもある。村上は小説の中で、日本社会の陥っている状況やら経済論を、レクチャーでもするように延々と繰り返すのだが、その部分がリポートを読まされているような印象を与えることが少なくないのだ。昔、町内のオヤジが散髪をしてもらいながら、「最近の政治はなってないやねぇ」などとやるのを「床屋政談」と言った。村上の主人公は恋人と懐石料理などを食いながら状況論をあれこれやるのだ。「これからどうなるんだ?」「国が破産するのよ」などと。さしずめ「めしや政談」と言うべきか。もっとも昔のグルメ漫画が食材に固執して、あれこれとウンチクを披露し合うのに対し、村上は軽やかにそのレベルを自明としているところが、時代の歯車が一歩動いたあらわれだろうか。
 
 さて村上がこの小説でこだわっているのは社会のコミュニケーション不全ということである。建前ではもう話が通じない、常識なんてとっくに崩壊しているという当たり前の場所に人々=少年がいるにもかかわらず、そのことを隠蔽しようとしているメディア=大人たちへの不信である。だが、その少年たちが擬制を次々と終焉せしめた果てに、たどりつくむき出しの世界が果たして、心休まる場所なのか。村上は懐疑的姿勢を崩してはいない。

 「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」と中学生たちのリーダーは語る。そのために彼らが作った擬似的な国家を訪ねて主人公は「この快適で人工的な町に希望はあるのだろうか、と考えた。もし希望があるとしても、実現に向けてドライブしていく動力となるのは欲望だろう」と思うのである。そこに村上の世代的な判断があるといえる。
 
 閉塞的な日本の状況に愛想を尽かした少年たちがパソコンに走る。そこで勝ち得た透明な物質力によって、希望を夢見る--。
 
 この構図から、僕らがまず思い浮かべるのはオウム真理教だろう。彼らもまた閉塞的な社会に見切りをつけ、自らの内面に向かい、そこから反転して擬似共産主義的な宗派へと形成していった。その際、ヨガとパソコンは解脱のために欠かせぬアイテムであった。ヨガは自我を解体し、パソコンはニュートラルなコミュニケーション装置であった。そうした脱中心化したはずの平穏な組織の中心に、強力なリーダーが居座る時、その組織は容易に前近代的な家父長集団、そして擬似国家へと変質していくことを、オウム真理教の経験は教えた。この小説の「ナマムギ」(ASUNARO)グループもまた、そうした雰囲気を漂わせているのはいうまでもない。
 
 主人公の恋人は「パソコンさえあればどこでも仕事ができるから」という理由で野幌市への移住を考えている。本当にそうだろうか。パソコンさえあれば、仕事ができるというのは、中学生グループ同様の錯誤でないのか。パソコンなど、ただの道具でしかない。「精神的交通手段」の技術的発展の成果でしかない。中心には生産力にして労働力たる人間が位置せざるを得ないのである。
 
 コミニュケーション不全の時代に希望をつくる集団を形成すること。そこには時代錯誤な国家顔貌と透明なファシズムの臭いが漂っている。そのことを十分承知の上で村上がどこまで進むのか。実際の社会ではなく、小説という想像力の世界で、どこまで描ききれるのか。良くも悪くも大変刺激的な作品ではある。
 
 (ちなみに、『希望の国のエクソダス』にはオフィシャルサイトが開設されている。URLは http://www.Ryu-Exodus.com 。こちらは小説としてはいささか場違いな印象を与えたリポート作品の舞台裏をしらせる力作だ。)

 §3《何もない場所から》

 ついでながら村上龍が選考委員に加わった第123 回芥川賞に町田康「きれぎれ」と松浦寿輝「花腐(くた)し」が決まった。村上は選評で面白いことを書いている。

 候補作を読んでの感想を一言で言うと、何もない、ということだった。英語で言うと nothing ということになる。(中略)『きれぎれ』には nothing 以外にはモチーフがない。『きれぎれ』の文体は、作者の「ちょっとした工夫」「ちょっとした思いつき」のレベルにとどまっている。(月刊『文藝春秋』9月号)

 確かに、松浦の作品には擬古的なほのめかし以外に、ほとんど動かされるものがなかった。これに対して町田康の作品『きれぎれ』(文藝春秋、1143円)には「ちょっとした工夫」以上のものを感じた。だが、村上龍は町田康には文体のアレンジしかなく、切実なリアリティのようなものがない、と見ているのだろう。確かに今の村上には「現代を巡る絶望と希望を書き尽くす」というモチーフが漲っている。しかし、町田にはそれがないと言えるのだろうか。
 
 町田の小説を読んで僕は、野坂昭如を思いだした。あの焼け跡闇市派には語ろうとすれば黙すか、饒舌を押さえきれず吃音者的にならざるを得ない切実さがあった。町田にはそれを感じた。
 
 町田のその破天荒な文体は生活破綻者特有のリズムを持っている。吉本隆明的に言えば、<話体>となろう。この手の文体は、世の中を捨てたり、そうした場所から世の中を照射する力を持っている。現代に於ける<話体>とは広がりすぎた高度資本主義社会のもたらすものを周縁から捉え返そうとしているものだ。
 
 町田が撃とうとしている時代は、『希望の国のエクソダス』の少年たちが見ている場所とそう違わない。落ちこぼれの道楽息子。ほんとうに落ちぶれて。人一倍の劣等感。それゆえの逸脱行動。反権威を装いながら世渡り上手に成功していく友人への鬱屈した思い。それらが、感覚の断片を積み重ねたような文体で記されていく。
 
 自分の場所がない。それを希望がないと言い換えてもいい。町田の主人公のいる場所は、そういう場所だ。
 
 少年たちがパソコンネットワークでそこから逸脱しようとしているのに対して、町田の主人公はランパブを這い回るようにして社会への異和を表現しているわけだ。そして彼は小賢しくないから「この国には希望だけがない」などというセリフを吐かないだけだ。

 新田富子はうつろな表情で窓の外を眺め始め、新田富子の母親は気が狂ったような目で仲人を睨みつけ、仲人は周章狼狽の挙げ句、おほほほ、と笑って場を取り繕おうとして失敗し、母親はひゅうひゅう死にそうな息をした。俺はとどめだとばかりに、「やはり鰻はこうやってちゅるちゅる吸って食うのがいちばん旨いですね」と云い、膳の上にあった鰻重に顔を伏せ、鰻の蒲焼きをちゅるちゅる吸った。    (『きれぎれ』33頁)

 こうした<話体>に村上が反応しないのは判るが、町田の感性が届いていてもおかしくはない。村上がちょっとデコレーションしすぎの場所にいることの反動があるように僕には思える。文学の裾野は村上が考えている以上に広いのではないか、というのが逸脱者への密かなシンパシーを抱き続けている僕の感想である。

 §4《旅のつれづれに》

 7月に仕事が変わって、全国各地を放浪することが多くなった。東芝リブレットはますます必須になった。PHSカードも「どこでもインターネット」に役立っている。もっともパソコンなんてなくてもやっていけるぜ、っていう気分も相変わらずである。
 
 旅先に携行するにはやはり「小さな本=リブレット」がいい。そこでオススメが『吉本隆明資料集』である。これは高知の吉本主義者の若頭をやっている松岡祥男が猫々堂(〒780-0921 高知市井口町45 松岡方)という発行所をつくり、散逸している吉本隆明の対談・討論記録を発掘整理している気の長い仕事である。9月10日付けで第6集(1000円)まで漕ぎ着けた。1960年に行われた「トロツキストと云われても-共産主義者同盟に聴く」(島成郎・葉山岳夫・吉本隆明)など懐かしい座談記録が収録されている。80頁程度の冊子なので気軽に持ち歩け、結構、読み応えがある。ニャンコのシンボル・マークは第6集からハルノ宵子さんが描いている。ばななほどメジャーじゃないが、こちらも吉本隆明の娘さんである。巻末には試行出版部のコピー広告もあり、いわば吉本隆明公認の資料集となりつつあるようだ。
 
 第7集では60年安保闘争渦中のものを収載すると予告されている。いずれ、まとめられれば最もラディカルな吉本隆明発言集となるだろう。そんな期待を抱きながら1集1集読んでいくのは楽しい。吉本嫌いの人にはどうでもいいだろう。嫌いな時もあるが、気になるという人にはぜひ読んでもらいたい。とりあえず宣伝ではあるが、言うまでもないが、僕も身銭を払って予約購読している。読者の支持だけが支えという『試行』の原則がここでも味わうことができるというわけだ。


 --執筆時点から約10年、すべては変わっている。それでも、妙に懐かしい文章である。

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動画配信事業も淘汰の時代

8日の新聞各紙に、ヤフーがUSENの動画配信事業「Gyao(ギャオ)」の経営権を握ることが報道されている。USENはここ数年、不採算事業の整理を続けてきており、多角的にネット界のチャンピオンを目指していたが、結局は有線放送以外のコンテンツ系事業は実らなかったと言えるようだ。

ヤフーは4月30日にUSENが全額出資しているGyaoの株式の51%を5億3000間年で買い取り、今秋をメドにGyaoと「ヤフー!動画」を統合したサイトに移行するようだ。

Gyaoは2005年に無料動画配信事業に乗り出し、日本では草分け的存在だった。しかし、その後はご存じのように「Youtube」(ユーチューブ)が動画サイトを一気に制覇してしまった。質量ともにユーチューブに敗れて、残ったのは08年8月期には28億円の営業損失だった。

公称でヤフー!動画が1100万人、Gyaoが650万人(たぶん、私もこのうちの1人か)の利用者がいるそうだ。これに対して、Googleのユーチューブは1800万人。その他、ニコニコ動画1200万人、NHKオンデマンドやフジテレビ・オンデマンド、アクトビラなどがあるが、いわば論外というか圏外である。(数字は日経新聞を参照した)

広告モデルでの無料配信、課金制での有料配信にしても、利益を生み出すビジネスモデルは確立されていない。なんとも、頼りないことだ。その惨状を見ると、免許制のテレビが広告モデルで独占的な利益を上げているのは驚くべき事かもしれない。

今や猫も杓子も、動画、動画、の時代である。動画は訴求力があるし、技術的にも簡単になったからだ。しかし、ネットの世界は思うようにはもうからない。コンテンツ栄えて、業者枯れるという恐ろしい状況になっている。

そして、本当に恐ろしいのは大独占企業が最後のおいしいところを持っていくように企業の合従連衡は進み、小さなベンチャーはその寡占化の嵐の中に飲み込まれていくことだ。現在の世界同時不況はネットの世界にも貫徹されている。大手家電メーカーのリストラが言われているが、ITベンチャーはさらに「仕事がない」「稼ぎがない」という厳しい状況に置かれている。今ごろになって、マルクスやレーニンの亡霊が歩き出しそうだ。

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2009/04/03

レトロなラディカリズムのスタイル

レトロなラディカリズム
少し前に「風のたより」第18号という雑誌が届いた。なんでも2年ぶりの発行だそうで、こちらもなぜ届いたのか、はっきり覚えていないほどである。

発行者は「風のポスト」というグループだ。執筆リストには、松本孝幸「〈潔さ〉としての大島弓子」、柏木みな「うみの向こう」3・4、伊川龍郎「近況備考欄」の3本がならんでいる。

詳しいことは知らないが、吉本主義者の自立派系の執筆者たちである。松本孝幸は昔、『やわらかな未知のものがたり』(大和書房)『吉本ばなな論』(JICC出版)などの本を書いている。しなやかな感性で、音楽やマンガ論を展開していた。伊川龍郎の単行本は読んでいないが、ハードな吉本的分析者という印象がある。

久しぶりに届いた雑誌は「風のたより」であったが、私の記憶では「風のポスト」がもともとのタイトルだったような気がする。人生いろいろなことがあるから、雑誌名の変わることも仕方あるまい。

そんなことより何より「風のたより」がすごいのは、いまだにわら半紙で作られていることだ。印刷こそパソコンで打ち出した文字を使っているが、実質的にはガリ版でつくったような雑誌である。

自立雑誌は吉本隆明の「試行」を頂点に「あんかるわ」とかいろいろあったが、そうした立派な活版雑誌は稀で、私達のようなチンピラ自立小僧はみんなガリ版でわら半紙に印刷して、自己メディアをつくったものだ。

この「風のたより」には六〇、七〇年代の自立派雑誌の雰囲気とガイストを今に伝えている。レトロなラディカリズムのスタイルがまだ生き残っている。内容が新たな一歩を踏み出しているかどうかは別に、インターネット時代になお崩さぬ手作りの発信スタイルに少し頭が下がる。

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くぅちゃんクッキー

くぅちゃんクッキー
くぅちゃんクッキー
勤め先で、実家のある釧路に帰ってきたので、お土産です、とお菓子をいただいた。

パッケージを見ると、「くぅちゃんクッキー釧路川」とあるではないか。ご丁寧に、「2月12日に釧路川に来ちゃいました!」と自己紹介まで付いている。

早速、中味を見たら、くぅちゃんがホタテ貝をお腹に載せている。正面から見た構図では、いささか太りすぎではある。

釧路川に野生ラッコが現れたのは、正しくは2月11日。川にちなんでつけられた愛称も、クーちゃん、で微妙に違うのはご愛嬌か。ちなみに、お菓子も裏をみると、小樽市でつくられていた。

でも、一匹のラッコが一躍、釧路を全国区の注目スポットに変えてしまうのだから、動物の存在はあなどれない。

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移りゆく季節の中で

移りゆく季節の中で
あっという間に3月が終わり、4月が駆け足で走っていく。冬から春へ季節はめぐる。

思うこと、考えることがいっぱいあるが、なかなか為すべきことが為せないままである。駄文録であるブログもすっかり開店休業だ。

強いて今の状態を言語化すれば、不快、である。もう少しカッコをつけて言えば、「自同律の不快」というやつだ。埴谷雄高の「死霊」なら、ぷふぃ、と言うところだ。

親鸞の言葉を借りれば、「わが心のよくて殺さぬにはあらず。害せじと思うとも百人千人を殺すこともあるべし」という関係への不快である。

ずーっと、和而不同、戦術的野合の身すぎ世すぎでやってきたが、時折、むしょうに腹が立つ。異議あり、と叫びたい瞬間がある。どうも居心地が悪い。

世の中にも、個の倫理にも越えてはならぬ価値観の喫水線というものがあるはずだ。それを曖昧化する人々がおり、自分がいる。自同律の不快。良心なんて犬にくれてやったというのなら別であるが。

自分の価値観の根底には、戦後世代として擬制を打ち破る真制民主への希求があった。言葉と行いの乖離を批判した者こそ私たちであったのに!投げた石つぶては今ごろおのれ自身に飛んでくる。

「新世紀エヴァンゲリオン」の主人公、碇シンジは成長できない少年である。「逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ」と言いながら、素直に運命を受け入れられない弱虫だ。だが、それでも、使徒たちとの戦いに赴く。

自分は、碇シンジ以下のままである。

北村透谷が山路愛山と繰り広げた人生相渉論争というやつがある。近代的自我が必死で切り開いた精神の豊かさを私たちは残念ながら防衛しきれていない。

今年の春はそんな小児病的惑いの中を、こともなげに移ろっていく。4月もまた残酷な季節であると知らされる。

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