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2009/03/10

ニュースショーという夜郎自大

ニュースショーという夜郎自大
朝起きて、テレビをつけると、みのもんたが出ている。もう、いい歳なのだから、頑張っているのは立派だ、と言いたいところだが、うるさいので困る。

みのはいつから国民の代表になったのだ。しかも、自分の趣味嗜好で事象を論評するのは、いささか公共の電波を使うには相応しくない。

まあ、昔から大橋巨泉のように好き放題で番組をやってきた人間はいた。だが、巨泉にはあくまでも娯楽番組の中で演じているという自覚が感じられた。

報道番組では田原総一朗の独善的進行、たとえば「共産党はいつも同じことを言っているから」と、議論に参加させないケースなど、があるが、それでも、自分の意見は相手の意見を聞くための挑発であるとの戦術的限定への理解があった。久米宏も基本的には同じだ。

ところが、みのもんたにはそうした自己否定が全くない。単純に怒り、自分が大衆や正義の代弁者だと信じて疑わない。単純莫迦ならいいが、自分のジャーナリズム的側面を露悪的に利用して恥じない。泣き芸の徳光和夫にさえも莫迦になるのはジャイアンツの時に、という分別があるのだが。

ジャーナリストの謙虚さも物事に補助線を引いてみるという複眼的発想が著しく欠如しているのではないか。ニュースは事実を冷静に伝え、報道のみでは判らない背後の問題点を整理、掘り下げるべきなのだ。亡くなった筑紫哲也には抑制しながらも本質を手放さない凄みがあった。

ほっとけな〜い、と国民の代弁者を気取っての大芝居はとても恥ずかしい。天気予報のお姉ちゃんを「根本くーん」と呼んでからかっているあたりが、似合っている。

報道をいつまでもエンターテイメントにしていては、国民を愚弄するばかりである。もちろんネットの世界にはエキセントリックやファナチックな人が山ほどいる。だが、彼らはせいぜい自主メディア空間で叫んでいるだけだ。テレビは影響力の規模が違う。

権力を持っている人ほど自分に謙虚であらねばならないということは、この場合でも同じである。

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