小説を書きませんか、たって
1年ほど前の話である。
大先輩のOさん。礼儀正しく温和で親切だ。
「どぅお、体の具合は?元気にしているかい?」
そんな優しい言葉、最近ついぞ聞いていない。ありがたや。「やはり、冬場は風邪気味で苦労しました。ぐしゅん」なんて甘えたい気分になる。だが、次の瞬間わが耳を疑った。
「今度、文集を作ることになっちゃって。50枚ほど小説を書いてください。五月まででいいよ」
いいよ、たって。
「大丈夫、たまには君の小説を読んでみたいという声もあって」
全然大丈夫じゃない。
雑文書きは本業兼趣味。だが、小説執筆など遠い空の向こうの世界だ。
だいたい小説を書く人は特別と思っている。昔の私小説家は仕事を失い、妻には逃げられ、愛人との自殺は失敗、陋巷をさまよう。ぶざまな姿を文章にするのだから普通じゃない。
小樽出身の文学理論家、伊藤整は「逃亡奴隷と仮面紳士」と、私小説家を評した。作家は自由を得ようとしながら、現世の壁に激突し、もがいているのだ。
こちら小市民に満足の日々。とても、そんな根性ありません。無理無理。
「でも、作家だよ…」と悪魔のささやき。確かに、「作家」は魅力的な言葉である。でも、どうすれば、作家になれるのか。政治から文学に転進した大衆作家のKさんは言う。
「ペンと紙さえあればいい。あとは時間と根気」
それで、小説が書ければ苦労はないぞ。
それから、1年。
結局、50枚の原稿は書いたものの、内容に自信なしで、ボツとなった。
「また、やるかい」
悪魔のささやきが時々聞こえる。どんなものか。
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